稲尾和久氏。
1937年6月10日生、大分県別府市出身。
右投右打。現役時代の背番号は24。
新人王、最多勝4回、最高勝率2回、最優秀防御率5回、最多奪三振3回、MVP2回、ベストナイン5回、その他様々な記録保持者である。
通算成績 756試合276勝137負 防御率1.98 奪三振2574
11月13日午前1時21分、福岡市内の病院にて悪性腫瘍のため死去。
享年71(70歳没)。
1956年、大分県立別府緑丘高等学校(現・大分県立芸術緑丘高等学校)から西鉄ライオンズに入団。
入団当初は注目の選手ではなく、三原脩監督も「稲尾はバッティング投手として獲得した」と公言してはばからなかった。
ところが、1年目から21勝6敗、防御率1.06(2007年現在パリーグ記録)の好成績を残し、最優秀防御率と新人王のタイトルを獲得した。
2年目の1957年からは3年連続30勝を記録し、1961年にはヴィクトル・スタルヒンに並ぶシーズン42勝をマーク。中西や豊田、大下弘、仰木彬らと共に、『野武士軍団』西鉄の黄金時代を築き上げる原動力となった。
1958年の日本シリーズでは、読売ジャイアンツに3連敗した後の第4戦、三原監督は、第1戦、第3戦に先発した稲尾をスタメンでマウンドに上げた。そしてその試合で勝利をもぎ取ると、後の3試合でも稲尾を起用し続けて4連勝し、奇跡の大逆転日本一を成し遂げた。実に7試合中6試合に登板(うち5試合に先発、4試合完投)し、第3戦以降は5連投、更に第5戦ではシリーズ史上初となるサヨナラホームランを自らのバットで放つという、文字通り「獅子奮迅」の活躍を見せ、優勝時の地元新聞の見出し「神様、仏様、稲尾様」は、今なお稲尾の枕詞となっている。日本シリーズには4回出場し、通算11勝をあげている。これは、堀内恒夫と並ぶ日本シリーズ最多勝記録である。
1962年に200勝を達成。デビューから8年連続20勝以上・史上唯一の3年連続30勝以上、同一シーズン内20連勝のプロ野球記録(1957年)を達成し、「鉄腕」の名をほしいままにした。しかし、1964年にはそれまでの酷使がたたって肩を故障。これを機に1966年リリーフに転向し、同年最優秀防御率のタイトルを獲得した。1969年限りで現役を引退。
“鉄腕”のエピソードを紹介
☆マウンド上のマナーが非常に優れていたことで有名。イニングが終わり相手投手にマウンドを譲るときは必ずロージンバッグを一定の場所に置き、自分の投球で掘れた部分を丁寧にならしていた。
☆足の裏を全て地面につけず、爪先で立つように投げるフォームは、漁師であった父の仕事の手伝いで、小船で櫓を漕ぎ続けていたことによって得たものだといわれている。
☆同じ投球フォームから直球・変化球を投げ分けることができ、パ・リーグの強打者を大いに苦しめた。得意の球種はシュート、スライダー。当初稲尾はマスコミに「自分の決め球はスライダーである」と吹聴していたが、実際はスライダーは見せ球で本当の決め球はシュートであり、これを見抜いていたのは野村克也(南海)だけだったという。また、リリースポイントの直前に握りを変え、シュートとスライダーを投げ分けることもできたという。フォークボールもマスターしていた。これは榎本喜八を打ち取るためだけに習得したもので、榎本との対戦以外では一球も投げなかった。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/
心からご冥福をお祈り致します。
1937年6月10日生、大分県別府市出身。
右投右打。現役時代の背番号は24。
新人王、最多勝4回、最高勝率2回、最優秀防御率5回、最多奪三振3回、MVP2回、ベストナイン5回、その他様々な記録保持者である。
通算成績 756試合276勝137負 防御率1.98 奪三振2574
11月13日午前1時21分、福岡市内の病院にて悪性腫瘍のため死去。
享年71(70歳没)。
1956年、大分県立別府緑丘高等学校(現・大分県立芸術緑丘高等学校)から西鉄ライオンズに入団。
入団当初は注目の選手ではなく、三原脩監督も「稲尾はバッティング投手として獲得した」と公言してはばからなかった。
ところが、1年目から21勝6敗、防御率1.06(2007年現在パリーグ記録)の好成績を残し、最優秀防御率と新人王のタイトルを獲得した。
2年目の1957年からは3年連続30勝を記録し、1961年にはヴィクトル・スタルヒンに並ぶシーズン42勝をマーク。中西や豊田、大下弘、仰木彬らと共に、『野武士軍団』西鉄の黄金時代を築き上げる原動力となった。
1958年の日本シリーズでは、読売ジャイアンツに3連敗した後の第4戦、三原監督は、第1戦、第3戦に先発した稲尾をスタメンでマウンドに上げた。そしてその試合で勝利をもぎ取ると、後の3試合でも稲尾を起用し続けて4連勝し、奇跡の大逆転日本一を成し遂げた。実に7試合中6試合に登板(うち5試合に先発、4試合完投)し、第3戦以降は5連投、更に第5戦ではシリーズ史上初となるサヨナラホームランを自らのバットで放つという、文字通り「獅子奮迅」の活躍を見せ、優勝時の地元新聞の見出し「神様、仏様、稲尾様」は、今なお稲尾の枕詞となっている。日本シリーズには4回出場し、通算11勝をあげている。これは、堀内恒夫と並ぶ日本シリーズ最多勝記録である。
1962年に200勝を達成。デビューから8年連続20勝以上・史上唯一の3年連続30勝以上、同一シーズン内20連勝のプロ野球記録(1957年)を達成し、「鉄腕」の名をほしいままにした。しかし、1964年にはそれまでの酷使がたたって肩を故障。これを機に1966年リリーフに転向し、同年最優秀防御率のタイトルを獲得した。1969年限りで現役を引退。
“鉄腕”のエピソードを紹介
☆マウンド上のマナーが非常に優れていたことで有名。イニングが終わり相手投手にマウンドを譲るときは必ずロージンバッグを一定の場所に置き、自分の投球で掘れた部分を丁寧にならしていた。
☆足の裏を全て地面につけず、爪先で立つように投げるフォームは、漁師であった父の仕事の手伝いで、小船で櫓を漕ぎ続けていたことによって得たものだといわれている。
☆同じ投球フォームから直球・変化球を投げ分けることができ、パ・リーグの強打者を大いに苦しめた。得意の球種はシュート、スライダー。当初稲尾はマスコミに「自分の決め球はスライダーである」と吹聴していたが、実際はスライダーは見せ球で本当の決め球はシュートであり、これを見抜いていたのは野村克也(南海)だけだったという。また、リリースポイントの直前に握りを変え、シュートとスライダーを投げ分けることもできたという。フォークボールもマスターしていた。これは榎本喜八を打ち取るためだけに習得したもので、榎本との対戦以外では一球も投げなかった。
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心からご冥福をお祈り致します。
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